おはようございます。
web3リサーチャーのmitsuiです。
毎週土日のお昼にはweb3の基礎の基礎レポートを更新しています。今週は「ID」について解説します。ぜひ最後までご覧ください!
はじめに
前編では、OAuth 2.0とOpenID Connectによる現在のID管理システムについて詳しく解説しました。これらの技術により、私たちは安全で便利なデジタルサービスを享受できるようになった一方で、特定の大手企業への依存、プライバシーの懸念、データの囲い込みといった課題も明らかになりました。
後編となる本記事では、これらの根本的な課題を解決する可能性を秘めた次世代技術として、DID(分散型識別子)とVerifiable Credentials(検証可能な認証情報)について詳しく解説します。
「自分のデジタルアイデンティティを自分で完全に管理する」――これまでは夢物語のように思われていたこの理想が、DID技術の登場により現実的なものとなってきています。
大学の卒業証明書、運転免許証、健康診断の結果、さらには趣味のコミュニティでの活動実績まで、あらゆる証明書や資格情報を、誰にも依存することなく管理し、必要な時に必要な相手にだけ提示できる世界。それがDIDが目指すビジョンです。
1. DIDとは何か?なぜ今必要なのか
現在のID管理システムの根本的な問題
前編で見てきたように、現在のOAuth/OIDCシステムでは、私たちのアイデンティティ情報は Google、Facebook、Microsoft といった大手企業のサーバーに保存されています。これらの企業が提供するIDプロバイダーサービスがなければ、多くのウェブサービスにログインすることすらできません。
この状況を別の角面から考えてみましょう。リアルな世界では、運転免許証やパスポートなどの身分証明書は、発行機関(政府など)によって発行されますが、その物理的な証明書は私たち自身が保管し、必要な時に提示します。政府のサーバーにアクセスできなくても、手元の免許証で身分を証明できます。
しかし、デジタルの世界では、このような「手元に置いておける身分証明書」が存在していませんでした。あなたがGoogleアカウントを使ってログインするたびに、Googleのサーバーとの通信が必要になります。Googleのサービスに障害が発生すれば、連携している他のすべてのサービスにもログインできなくなってしまいます。
DIDが提供する革命的なアプローチ
DID(Decentralized Identifier:分散型識別子)は、このような中央集権的な依存関係を根本的に変革する技術です。W3C(World Wide Web Consortium)によって2022年7月に正式な勧告として標準化されたこの技術は、「誰もが自分自身のデジタルアイデンティティを完全に制御できる」ことを目指しています。
DIDの核心的なアイデアは、暗号学的な公開鍵ペアを基盤として、分散化されたシステム(多くの場合はブロックチェーン)上に一意な識別子を作成することです。この識別子は、従来のメールアドレスやユーザー名とは全く異なり、特定の組織や企業に依存しません。
たとえば、did:ethr:0x1234567890abcdef1234567890abcdef12345678
というDIDがあったとします。このDIDは、Ethereumブロックチェーン上に記録された識別子で、その所有者だけが対応する秘密鍵を持っています。GoogleやFacebookがサービスを停止したとしても、このDIDは永続的に存在し続け、所有者は引き続き自分のアイデンティティを証明できます。
自己主権型アイデンティティ(SSI)の理念
DIDが目指しているのは、Self-Sovereign Identity(自己主権型アイデンティティ、SSI)と呼ばれる概念の実現です。これは、個人が自分のアイデンティティ情報を完全に制御し、いつ、誰に、どのような情報を、どの程度の範囲で開示するかを自分で決定できる世界です。
現在のシステムでは、あなたの個人情報は様々な企業のデータベースに分散して保存されており、それらの企業の方針や判断によって情報の利用方法が決定されます。しかし、SSIの世界では、すべての個人情報はあなた自身が管理するデジタルウォレットに保存され、第三者があなたの情報にアクセスするには、毎回あなたの明示的な許可が必要になります。
これは単なる技術的な変化ではなく、デジタル社会における個人の権利と自由に関わる根本的な変革です。
2. DID Documentの構造を理解する
DIDを理解するためには、その中核となる「DID Document」の構造を知る必要があります。DID Documentは、特定のDIDに関連する暗号学的な情報や、そのDIDの利用方法を記述したJSONドキュメントです。
DID Documentの基本的な構成要素
実際のDID Documentの例を見てみましょう:
{
"@context": [
"https://www.w3.org/ns/did/v1",
"https://w3id.org/security/suites/ed25519-2020/v1"
],
"id": "did:example:123456789abcdefghi",
"controller": "did:example:123456789abcdefghi",
"verificationMethod": [{
"id": "did:example:123456789abcdefghi#keys-1",
"type": "Ed25519VerificationKey2020",
"controller": "did:example:123456789abcdefghi",
"publicKeyMultibase": "zH3C2AVvLMv6gmMNam3uVAjZpfkcJCwDwnZn6z3wXmqPV"
}],
"authentication": [
"did:example:123456789abcdefghi#keys-1"
],
"service": [{
"id": "did:example:123456789abcdefghi#vcs",
"type": "VerifiableCredentialService",
"serviceEndpoint": "https://example.com/vc/"
}]
}
各フィールドの詳細な説明
@context(コンテキスト) このフィールドは、DID Documentがどの仕様に準拠しているかを示します。W3Cの標準的なDID仕様に加えて、使用する暗号化手法や拡張機能のコンテキストも指定できます。これにより、異なるシステム間でDID Documentの意味を正確に解釈できるようになります。
id(識別子) DID自体を示すフィールドです。この例では did:example:123456789abcdefghi
となっていますが、実際のDIDでは、使用するDIDメソッドに応じて異なる形式になります。この識別子は全世界で一意である必要があります。
controller(コントローラー) そのDIDを制御する権限を持つエンティティを指定します。多くの場合、DIDの所有者自身がコントローラーになりますが、組織のDIDの場合は複数のコントローラーが設定されることもあります。
verificationMethod(検証メソッド) DIDに関連する暗号学的な公開鍵と、その利用方法を定義します。この例では、Ed25519という楕円曲線暗号を使用した公開鍵が登録されています。この公開鍵は、DIDの所有者が作成したデジタル署名を検証するために使用されます。
authentication(認証) そのDIDの所有者であることを証明するために使用できる検証メソッドを指定します。通常は verificationMethod で定義された公開鍵のうち、認証に使用可能なものが列挙されます。
service(サービス) DIDの所有者が提供する、または関連するサービスのエンドポイント情報を記録できます。たとえば、Verifiable Credentialsを発行・管理するサービスや、メッセージング サービスなどが登録されることがあります。
DID Documentの動的更新
従来のOAuth/OIDCシステムでは、アカウント情報の変更は中央の認証サーバーに依存していましたが、DIDシステムでは、DID Documentの更新も完全に分散化されています。DIDの所有者は、対応する秘密鍵を使って暗号学的に署名された更新トランザクションを発行することで、自分のDID Documentを更新できます。
これにより、たとえば新しい公開鍵を追加したり、古い鍵を無効化したり、新しいサービスエンドポイントを登録したりといった操作を、誰の許可も得ることなく、自分の判断だけで実行できます。
3. 主要なDIDメソッドとその特徴
DIDは抽象的な概念であり、実際に使用するためには具体的な「DIDメソッド」を選択する必要があります。DIDメソッドは、DIDをどのような基盤システム上で管理するか、どのような操作が可能かを定義したものです。現在、様々な特徴を持つDIDメソッドが開発されており、用途や要件に応じて選択できます。
did:ethr - Ethereumブロックチェーン上のDID
did:ethr
は、Ethereumブロックチェーン上でDIDを管理するメソッドの一つです。Ethereumの分散性と透明性を活用しながら、スマートコントラクトによる高度な機能も利用できます。
主な特徴: Ethereumの既存のインフラを活用できるため、多くのdApp(分散アプリケーション)との連携が容易です。たとえば、DeFi(分散型金融)サービスでのKYC(本人確認)や、NFTマーケットプレイスでのユーザー認証などに活用されています。
実際の使用例: 暗号通貨取引所では、ユーザーのEthereumアドレスを基盤とした
did:ethr
を使って、取引履歴と本人確認情報を関連付けています。ユーザーは、複数の取引所を利用する際に、同一のDIDを使って一貫したアイデンティティを維持できます。課題: Ethereumのトランザクション手数料(ガス代)が高額になることがあり、頻繁なDID Document更新にはコストがかかります。また、Ethereumネットワークの混雑時には、更新処理に時間がかかる場合があります。
did:key - シンプルで軽量な鍵ベースDID
did:key
は、ブロックチェーンやその他の外部システムに依存しない、最もシンプルなDIDメソッドです。公開鍵そのものからDIDを生成するため、外部のインフラを必要とせず、完全にオフラインでも動作します。
仕組みの解説:
did:key
では、暗号学的な公開鍵を特定の形式でエンコードすることで、直接DIDとして使用します。たとえば、Ed25519公開鍵から生成されたdid:key:z6MkpTHR8VNsBxYAAWHut2Geadd9jSwuBV8xRoAnwWsdvktH
のようなDIDは、その鍵の所有者のみが制御できます。適用場面: 一時的な通信や、プロトタイプ開発、テスト環境などで威力を発揮します。また、インターネット接続が不安定な環境や、プライバシーを最重視する場面でも有効です。
制限事項: DID Documentの更新ができないため、鍵の更新や取り消しが困難です。また、第三者がDIDの有効性を確認する際に、ブロックチェーンのような信頼できる記録システムを参照できません。
did:ion - Microsoftのレイヤー2ソリューション
did:ion
は、Microsoftが開発した革新的なDIDメソッドで、Bitcoinブロックチェーンをアンカーとしながら、独自のレイヤー2ネットワークで高速・低コストな処理を実現しています。
技術的な革新: ION(Identity Overlay Network)は、Bitcoinのセキュリティと分散性を継承しながら、毎秒数万件のDID操作を処理できる設計になっています。DID Documentの更新は、まずIONネットワーク上で即座に反映され、定期的にBitcoinブロックチェーンにハッシュ値がアンカーされる仕組みです。
企業での採用例: Microsoftは、Azure Active Directoryの拡張機能として、エンタープライズ顧客向けにIONベースのDIDサービスを提供しています。これにより、企業は従来のActive Directoryと新しいDIDシステムを段階的に統合できます。
将来性: 大手企業の本格的な採用により、DIDの実用化が加速することが期待されています。また、他のDIDメソッドとの相互運用性についても、積極的に標準化活動が進められています。
DIDメソッドの選択指針
どのDIDメソッドを選ぶかは、プロジェクトの要件や制約条件によって決まります。
コストを重視する場合:
did:key
が最も経済的ですが、機能は限定的です。既存のEthereumエコシステムとの連携を重視する場合:
did:ethr
が適しています。エンタープライズレベルのスケーラビリティと信頼性を重視する場合:
did:ion
が有力な選択肢です。実験的なプロトタイプや概念実証:
did:key
で十分な場合が多く、必要に応じて他のメソッドに移行できます。
4. Verifiable Credentials(検証可能な認証情報)の革命
DIDだけでは単なる識別子に過ぎませんが、Verifiable Credentials(VC)と組み合わせることで、真の自己主権型アイデンティティシステムが実現されます。VCは、デジタル世界における「証明書」や「認証情報」を、改ざん不可能で検証可能な形で表現する技術です。
現在の証明書システムの問題点
私たちの日常生活では、様々な証明書や資格情報が重要な役割を果たしています。大学の卒業証明書、運転免許証、健康診断書、職歴証明書など、これらの書類は就職、転職、各種手続きの際に必要不可欠です。
しかし、現在のデジタル証明書システムには深刻な問題があります。まず、偽造が容易であることです。PhotoshopなどのツールでPDFを編集すれば、見た目上は本物と区別がつかない偽造証明書を作成できてしまいます。また、証明書の真正性を確認するためには、発行機関に直接問い合わせる必要があり、時間とコストがかかります。
さらに、証明書の管理も煩雑です。就職活動では、複数の企業に同じ証明書を何度も提出する必要があり、その度に大学や前職の会社から証明書を取り寄せなければなりません。
Verifiable Credentialsによる解決
Verifiable Credentialsは、これらの問題を根本的に解決します。VCは、暗号学的なデジタル署名によって保護された証明書で、発行者(Issuer)、保有者(Holder)、検証者(Verifier)の三者間での信頼関係を、中央集権的な機関に依存することなく確立できます。
実際の流れを例で見てみましょう:
大学が卒業証明書をVCとして発行する場合を考えてみます。まず、大学は自身のDIDを使って、学生の DID、卒業年月日、専攻、成績などの情報を含む証明書に暗号学的な署名を付与します。学生は、この署名付き証明書を自分のデジタルウォレットに保存します。
就職活動で企業にこの証明書を提示する際、学生は自分のウォレットから証明書を送信します。企業は、大学の公開鍵を使って署名を検証することで、その証明書が確実に大学によって発行され、改ざんされていないことを即座に確認できます。この過程で、大学に問い合わせる必要はありません。
VCの技術的構成要素
Verifiable Credentialは、以下の主要な要素で構成されています:
Issuer(発行者) 証明書を発行する機関や組織です。大学、政府機関、企業、医療機関など、様々なエンティティがIssuerになることができます。Issuerは自身のDIDを持ち、発行する証明書に暗号学的な署名を付与します。
Credential Subject(証明書の対象者) 証明書が証明する対象となる人物や組織です。通常は証明書を受け取る個人のDIDが記録されます。
Claims(主張) 証明書が証明する具体的な情報です。年齢、学歴、職歴、スキル、健康状態など、あらゆる種類の情報をClaimsとして含めることができます。
Proof(証明) 発行者による暗号学的な署名です。この署名により、証明書の真正性と完全性が保証されます。
VCの具体的な例
実際のVCの構造を見てみましょう:
{
"@context": [
"https://www.w3.org/2018/credentials/v1",
"https://www.w3.org/2018/credentials/examples/v1"
],
"id": "http://university.example/credentials/3732",
"type": ["VerifiableCredential", "UniversityDegreeCredential"],
"issuer": "did:ethr:0x1234567890abcdef1234567890abcdef12345678",
"issuanceDate": "2023-03-15T10:30:00Z",
"credentialSubject": {
"id": "did:ethr:0xabcdefabcdefabcdefabcdefabcdefabcdefabcd",
"degree": {
"type": "Bachelor of Science",
"name": "Computer Science"
},
"graduationYear": 2023
},
"proof": {
"type": "EcdsaSecp256k1Signature2019",
"created": "2023-03-15T10:30:00Z",
"verificationMethod": "did:ethr:0x1234567890abcdef1234567890abcdef12345678#keys-1",
"proofPurpose": "assertionMethod",
"jws": "eyJhbGciOiJFUzI1NksiLCJ0eXAiOiJKV1QifQ..."
}
}
プレゼンテーションと選択的開示
VCのもう一つの革新的な機能は、「選択的開示」です。従来の証明書では、内容をすべて開示するか、まったく開示しないかの二択でした。しかし、VCでは、必要な情報のみを選択して開示できます。
たとえば、年齢確認が必要な場面で、「20歳以上である」という事実のみを証明し、具体的な生年月日や住所は開示しない、といったことが可能になります。これにより、プライバシーを保護しながら、必要最小限の情報のみを提供できます。
この機能は、BBS+(Boneh-Boyen-Shacham)署名という先進的な暗号学的手法によって実現されています。BBS+署名では、証明書の一部の情報のみを開示しても、その部分が確実に元の証明書から抽出されたものであることを証明できます。
5. 分散型IDの実用的なユースケース
DIDとVCの技術的な基盤を理解したところで、これらが実際にどのような場面で活用されているか、具体的なユースケースを見ていきましょう。
金融機関におけるKYC・オンボーディングの革新
現在の金融サービスでは、新規顧客の口座開設時に複雑なKYCプロセスが必要です。顧客は身分証明書、住民票、収入証明書などの書類を揃え、それらを金融機関に提出し、審査を受ける必要があります。このプロセスは時間がかかり、顧客にとって負担が大きく、金融機関にとってもコストが高い作業でした。
DID/VCシステムでは、このプロセスが劇的に改善されます。政府機関や既存の金融機関から発行されたVCを使って、新しい金融サービスに即座にオンボーディングできるようになります。
具体的な流れ
顧客が最初に大手銀行でKYCを完了した際、その銀行が顧客の身元確認情報をVCとして発行
顧客は、この VC を自分のデジタルウォレットに保存
別の金融サービス(証券会社、保険会社、フィンテック企業など)を利用したい場合、既存のVCを提示することで、再度の書類提出や審査なしに、即座にサービスを利用開始できる
これにより、顧客は一度のKYCで複数の金融サービスを利用でき、金融機関も重複する審査コストを削減できます。さらに、VCの暗号学的な検証により、偽造書類のリスクも大幅に軽減されます。
教育分野での証明書デジタル化
教育分野は、DID/VCの最も有望な応用領域の一つです。現在、学歴詐称や偽造学位証明書は世界的に深刻な問題となっており、採用時の学歴確認には多大な時間とコストがかかっています。
従来の問題: 海外の大学卒業者が日本で就職する場合、企業は学位の真正性を確認するために、その大学に直接問い合わせを行う必要があります。時差や言語の問題もあり、確認に数週間から数か月かかることも珍しくありません。
DID/VCによる解決: 大学がすべての卒業証明書をVCとして発行すれば、企業は即座に学位の真正性を確認できます。さらに、成績証明書、在学証明書、履修証明書なども VC として管理できるため、学生は必要に応じて様々な証明書を柔軟に組み合わせて提示できます。
実際の導入事例: MIT(マサチューセッツ工科大学)は、2017年から卒業証明書のデジタル化実験を開始し、現在では正式にVCベースの証明書発行を行っています。学生は、スマートフォンアプリで卒業証明書を受け取り、就職活動で企業に直接提示できます。企業側は、MITの公開鍵で署名を検証することで、証明書の真正性を即座に確認できます。
医療データ管理とプライバシー保護
医療分野では、患者のプライバシー保護と医療データの適切な共有のバランスが重要な課題となっています。DID/VCは、この課題に対する有効な解決策を提供します。
現在の課題: 患者が複数の医療機関を受診する場合、各機関で個別に検査や診断が行われ、医療データが分散しています。緊急時に過去の医療履歴を迅速に参照できないことが、医療の質や安全性に影響を与えることがあります。
DID/VCによる革新: 患者は自分のDIDを持ち、各医療機関から発行されたVCとして医療記録を管理します。検査結果、診断書、処方箋、ワクチン接種記録などが、すべて患者自身のウォレットに保存されます。
新しい医療機関を受診する際、患者は必要な医療情報のみを選択的に開示できます。たとえば、アレルギー情報と現在服用中の薬剤情報のみを提示し、プライベートな疾患歴は開示しない、といった細かな制御が可能です。
プライバシー保護の実例: 心療内科での診療記録は機密性が高い情報ですが、他の診療科でも薬剤の相互作用を確認するために服薬情報は重要です。DID/VCシステムでは、「現在服用中の薬剤名」のみを開示し、「なぜその薬を服用しているか」という診断情報は開示しない、といった選択的開示が実現できます。
NFTゲームとメタバースでの アイデンティティ管理
ブロックチェーンゲームやメタバースの普及により、仮想世界でのアイデンティティ管理も重要な課題となっています。プレイヤーは複数のゲームやプラットフォームで活動することが多く、各サービスで個別のアカウントを管理するのは煩雑です。
統合的なゲーマープロフィール: DIDを基盤とすることで、複数のゲームやメタバースプラットフォーム間で一貫したアイデンティティを維持できます。プレイヤーの実績、保有アイテム、フレンド関係などが、ポータブルなVCとして管理され、新しいゲームを始める際に既存の実績を引き継げます。
実例: あるプレイヤーが RPG ゲームで「ドラゴンスレイヤー」の称号を獲得したとします。この実績がVCとして発行されれば、別のゲームでも「経験豊富なプレイヤー」として認識され、特別なアイテムや権限を得られる可能性があります。
さらに、ゲーム内で獲得したスキルや知識を現実世界でも活用できる可能性もあります。たとえば、戦略ゲームでの高いランキングが、実際の戦略立案能力の証明として就職活動で評価される、といった新しい価値創造も期待されています。
6. DID導入における課題と今後の展望
DID/VC技術は大きな可能性を秘めていますが、実用化に向けては解決すべき課題も多く存在します。技術的な課題から社会的な受容まで、幅広い観点から現状を分析してみましょう。
インターオペラビリティ(相互運用性)の標準化
現在、多数の DID メソッドや VC 形式が並立しており、異なるシステム間での相互運用性が重要な課題となっています。
現状の問題: 大学Aが
did:ethr
ベースで学位証明書を発行し、企業Bがdid:ion
ベースの検証システムを採用している場合、技術的な互換性の問題で証明書の検証ができない可能性があります。また、同じ DID メソッドを使っていても、VC の形式やメタデータの定義が異なることで、システム間連携が困難になることもあります。標準化への取り組み: W3C や DIF(Decentralized Identity Foundation)などの標準化団体では、異なる DID メソッド間でのブリッジ機能や、共通の VC スキーマの策定が進められています。また、主要な実装者間での互換性テストも定期的に実施され、実用レベルでの相互運用性確保に向けた努力が続けられています。
実践的な解決アプローチ: 短期的には、複数の DID メソッドに対応可能なマルチ ID ウォレットの開発が進んでいます。ユーザーは一つのアプリケーションで、様々な DID メソッドを使い分けることができるようになります。
長期的には、DID メソッド間のクロスチェーン機能や、統一された VC スキーマの確立により、ユーザーが意識することなくシームレスな相互運用性が実現されることが期待されています。
スケーラビリティとブロックチェーンコストの課題
多くの DID メソッドがブロックチェーンを基盤としているため、スケーラビリティとトランザクションコストが実用化の障壁となることがあります。
例えば、Ethereum ベースの did:ethr
では、ネットワークが混雑している時期にガス代が高騰し、DID Document の更新に数千円のコストがかかることがあります。個人ユーザーにとって、身分証明のために毎回高額な手数料を支払うのは現実的ではありません。
また、大量のユーザーが同時に DID を更新しようとした場合、ブロックチェーンのスループット限界により処理が遅延し、リアルタイムでの身分証明に支障をきたす可能性があります。
この問題に対して、レイヤー2 ソリューションの活用が最も有望な解決策の一つです。前述の did:ion
は、Bitcoin をアンカーとしながら独自のレイヤー2 で高速処理を実現しています。同様に、Ethereum のレイヤー2(Polygon、Arbitrum、Optimism など)を活用した DID メソッドも開発されています。
また、状態チャネルやサイドチェーンを活用することで、頻繁な更新処理をオフチェーンで実行し、必要に応じてメインチェーンにコミットする仕組みも研究されています。
今後、DID システムの普及には、個人ユーザーが負担可能なコスト構造の実現が不可欠です。政府や教育機関が証明書発行コストを負担したり、サービス提供企業がユーザーに代わってトランザクション手数料を支払ったりする仕組みの検討も進んでいます。
UX改善のための抽象化レイヤー
DID/VC 技術の最大の課題の一つは、一般ユーザーにとっての複雑さです。暗号学的な鍵管理、ブロックチェーン操作、JSON 形式のデータ構造など、技術的な知識が必要な要素が多く、普及の障壁となっています。
現在のUX課題: 秘密鍵を紛失すると、DID やそれに関連するすべての証明書にアクセスできなくなってしまいます。また、DID Document の更新や VC の管理には、ブロックチェーンや暗号化技術の理解が必要で、一般ユーザーには敷居が高い作業です。
抽象化レイヤーによる解決: この課題に対して、技術的な複雑さをユーザーから隠蔽する抽象化レイヤーの開発が進んでいます。DID Hub や Identity Wallet Service といったサービスでは、ユーザーは従来のメールアドレスとパスワードでログインするだけで、背後で自動的に DID 操作が実行されます。
ソーシャルリカバリーの実装: 鍵紛失リスクに対しては、ソーシャルリカバリーという仕組みが開発されています。これは、信頼できる友人や家族を「ガーディアン」として指定し、鍵紛失時に複数のガーディアンの協力を得て DID を復旧する仕組みです。
ユーザーは事前に、母親、配偶者、親友など3人のガーディアンを指定しておきます。鍵を紛失した場合、3人のうち2人以上の同意があれば、新しい鍵で DID を復旧できます。これにより、セキュリティを保ちながら、実用的な鍵管理が可能になります。
規制対応と法制度の整備
DID/VC の実用化には、既存の法制度との整合性確保も重要な課題です。
個人情報保護法との関係: DID システムでは、個人が自分の情報を完全に制御することを前提としていますが、これは現在の個人情報保護法の枠組みと必ずしも整合しない部分があります。特に、EU の GDPR(一般データ保護規則)では、個人データの削除権(忘れられる権利)が規定されていますが、ブロックチェーン上に記録された情報の削除は技術的に困難です。
電子署名法との整合性: VC の法的有効性を確保するためには、電子署名法との関係を明確にする必要があります。現在の日本の電子署名法では、認定認証局による証明書が必要とされる場面がありますが、DID システムの分散的な性質とどのように調和させるかが課題となっています。
国際的な法制度調和: DID/VC は本質的にボーダーレスな技術であるため、国際間での法制度調和も重要です。異なる国で発行された VC が、他国でも有効な証明書として認められるためには、国際的な相互認証協定や標準化が必要です。
規制サンドボックスの活用: 多くの国で、新しい技術の実証実験を支援する規制サンドボックス制度が整備されています。DID/VC についても、この制度を活用して実証実験を行い、法制度の課題を洗い出し、必要な法改正の検討が進められています。
まとめ:連載全体の振り返りと未来への展望
本連載では、前編で OAuth 2.0 と OpenID Connect による現在の中央集権的 ID 管理システムを詳しく解説し、後編では DID と Verifiable Credentials による次世代の自己主権型 ID 管理について探ってきました。
前編で見たように、OAuth/OIDC は現在のインターネットインフラの重要な基盤となっており、多くのメリットをもたらしています。しかし同時に、中央集権への依存、プライバシーの懸念、データの囲い込みといった根本的な課題も抱えています。
DID/VC は、これらの課題に対する技術的な解決策を提供するだけでなく、デジタル社会における個人の権利と自由を拡大する可能性を秘めています。個人が自分のデータとアイデンティティを完全に制御できる世界は、単なる技術的な進歩ではなく、社会的な変革でもあるのです。
しかし、中央集権から完全な分散化への移行は、一朝一夕に実現できるものではありません。技術的な成熟度、法制度の整備、ユーザーの受容度、経済的な持続可能性など、多くの要素を考慮した段階的なアプローチが必要です。
当面は、既存のシステムと新しい技術を組み合わせたハイブリッド型のソリューションが主流となるでしょう。ユーザーは慣れ親しんだインターフェースを使いながら、背後で自動的に DID/VC の恩恵を受けられるようになります。
この変革期は、新しいビジネスモデルやサービスを創出する絶好の機会でもあります。従来の中央集権的なアプローチでは実現できなかった、よりプライベートで、ポータブルで、ユーザー中心のサービスが可能になります。
この一連の流れの中でブロックチェーンが担う役割に注目しつつ、今後も追いかけていこうと思います。
以上、「DID基礎」レポートでした!
免責事項:リサーチした情報を精査して書いていますが、個人運営&ソースが英語の部分も多いので、意訳したり、一部誤った情報がある場合があります。ご了承ください。また、記事中にDapps、NFT、トークンを紹介することがありますが、勧誘目的は一切ありません。全て自己責任で購入、ご利用ください。
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